Into The Comic   久永実木彦


 わたしはいつも漫画のことを考えている。目覚めとともに漫画のことを考え、朝食を摂りつつ漫画を読み、駅までの道のりを漫画のことを考えながら歩き、通勤電車で漫画を読んでいる。急行は混んでいて漫画を読めないので、早めに家を出て各駅停車に乗って漫画を読む。手提げのバッグにはいつも漫画を五冊入れている。行きに一冊、お昼休みに二冊、帰りに一冊。残りの一冊は交通遅延などの不測の事態への備えだ。仕事中も漫画のことを考えている。とはいえ仕事のことも考えなくてはならないのでとてもつらい。そんなときは、自分は漫画のために働いているのだということを、自分に言い聞かせるようにしている。働いて得られる給与は、漫画を購入する資金となり、ひとり静かに漫画を読む空間のための家賃となり、漫画を読むために必要な肉体を維持する食費となる。お昼休みにも漫画を読む。誰にも邪魔されず漫画を読みたいので、同僚からの誘いはすべて断っている。正午のチャイムとともに手提げのバッグを持ってすぐそばの喫茶店に行き、隅のテーブルで漫画を読む。同じ漫画を繰り返し読むこともあれば、新刊を読むこともある。どの漫画も繰り返し読みたいと思うが、新刊は毎週出るので果てしない。人生を一秒たりとも無駄にすることはできない。新刊は退勤時に帰り道の本屋で購入することにしている。それがもっとも効率のいい方法だ。お昼休みの時間は短い。本屋まで足を延ばす時間があるならば、ページをめくることに使うべきなのだ。今日は大好きな漫画の新刊が出るから、退勤まで我慢が必要だ。午後の仕事中はもっぱら新刊のことを考えた。主人公は全国大会に行くことができるのだろうか。そしてヒロインとの恋の行方は……。考えるほど気持ちは募り、あっという間に定時の五分前だ。新刊のことを考えながら帰り支度をしていると、部長が話しかけてきた。
「N美ちゃん、悪いんだけど今日残業してもらえる? 先方の急な要望で――」
 何を言っているのだ。今日の新刊をわたしがどれだけ楽しみにしていたか、わかっていないのだろうか。無論、わたしはそんなことを社内で話したりはしないから、わかっていなくて当然ではある。だが、それにしたってタイミングというものがある。なんとか断らなくてはならない。しかし理由を言い出すことができず、結局押し切られてしまった。安定した漫画の供給について考えれば、労働を蔑ろにすることはできない。しかし、これではまるで漫画を人質に取られているようなものではないか。部長の行動は人さらいと何ら変わるところがない。本屋の営業時間から逆算すると、残業は二時間以内に終わらせなくてはならない。必死の形相で仕事に取り組むわたしを労うつもりか、ふたたび部長が話しかけてきた。
「いやあ、本当に申し訳ないね。あ、そういえばN美ちゃん、○○読んでるよね? 今日、新刊が出てるみたいだよ」
 そんなことは貴様に言われずとも知っている。
「でも、まさか怪我で全国を諦めることになるとはねえ。ヒロインの子も転校しちゃうし」
 なんだと。こいつ連載で読んでいるということか。ふざけるな。わたしは単行本で読む派なのだ。それより全国を諦めたって本当か。あいつが全国に懸ける想いは、そんな軽いものではなかったはずだ。それほど深刻な怪我だというのか。どこを怪我したのか。治るのか治らないのか。治るとすれば全治どれくらいなのか。それに転校って何だ。国内なのか海外なのか。主人公との恋はどうなるのか。遠距離恋愛になるのか。いや、転校先が隣町ということもあり得る。わからない。何ひとつわからない。気になる。読みたい。早く漫画を読みたい。しかし、展開が気になりすぎるあまり、わたしの作業効率は著しく低下し、ようやく仕事を終えたのは終電の時刻だった。何ということだ。ふざけるな。すでに本屋は閉まってしまった。楽しみにしていた新刊を発売日に読むというささやかな願いは、もはや永遠に叶わなくなってしまった。ふざけるな。ふざけるな。わたしは絶望とともに電車に乗った。乗車券は涙に濡れた。せめて別の漫画を読んで気持ちを癒そう。今日は本当に疲れた。心も体も疲弊しきってしまった。しかし、極度の消耗のためか、漫画の五冊入った手提げバッグを会社に忘れてきてしまった。そんなバカな。あり得ない。漫画が読みたい。いますぐ漫画を読まなくては息もできない。漫画はわたしを見捨てたというのだろうか。わたしは漫画に人生を捧げてきたというのに。わたしは泣いた。人目を気にすることもなく、終電の座席に泣き崩れた。漫画が読みたい。漫画が読みたい。漫画がなくては生きていけない。

 ――その時だった。
 わたしは電車の窓に目を奪われた。四角い枠にはめられた窓の連なり……これはコマ割りだ。深夜の住宅街。誰もいない公園。空に浮かぶ月。右から左に流れていく景色が、恐ろしいほどの速度でわたしに物語を提示する。何という斬新な手法だろう。しかし、漫画とは得てしてそういうものではなかったろうか。今日まで気づかなかったわたしが愚かだった。そう。漫画はずっとわたしのそばにいたのだ。そして、わたしは窓に映る自分の姿を見た。ああ、ついに……! ついに……! わたしは漫画の一部となったのだ。めくるめく世界の中心に、泣きながら微笑むわたしの姿があった。ああ、漫画よ。愛しい漫画よ。待っていてくれたのですね。そのコマの先に、わたしはいつだって胸を踊らせるのです。ああ、ああ。いまそちらに参ります。わたしは窓に向かって頭から――





久永実木彦
SF作家。小説家。『七十四秒の旋律と孤独』にて第8回創元SF短編賞を受賞。岡田奈々オタク。

本作の舞台は二十四時間営業のコンビニエンス・ストアが消滅した未来社会です。